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きょうの言葉(5月後半) きょうの言葉は、平日に掲載されます。

*不幸はその過ちを聞かざるにあり。(周書)

人間、一番の不幸は何かというと、自分の過ちを誰も言ってくれないということだ。 人には誰でも過ちはある。 それは仕方がない。 それを改めてゆくところに修行がある。 しかし自分では自分の過ちはわからないものだ。 だから誰かが言ってくれないと困る。 ところがこの過ちを言ってくれる友人というものは少ない 。余程こちらが謙虚な気持ちになっていないと、人は決して過ちを言ってくれない。 良薬は口に苦く、諫言は耳に痛しの言葉があるように、過ちを指摘されるといい気がしないからつい感謝しない。 だから誰も過ちを言ってくれないのだ。 過ちを言ってくれる友に感謝せよ。H29-5-31

*財宝も地位も愛に比すれば塵埃の如し。(グラッドストーン:イギリスの政治家)

ちょっと日本の政治家からは聞けない言葉だ。 政治家に限らず日本の各界の人物からは、容易に聞かれぬ言葉だ。 日本に偉大な政治家や法律家の生れぬ原因はここにある。 日本では愛というものをあまり高く評価していない感がある。 財宝や地位の方をずうっと高く見ている。 従って日本では、たとえ小人であっても政治家や富豪が偉い者のように見られ、先生、先生と敬われている。 悲しいことだ。これから政治家や公僕を目指す者よ、愛を基調とした精神を持って、世に出でよ。 それが社会を明るくする。H29-5-30

*仁者は人の善を見て、人の悪を見ず。(伊藤仁斎:江戸初期の儒者)

仁者とは立派な徳行の人である。 そのような徳行の人というものは、決して他人の短所を見ない。 また他人の悪を見ない。 その善い所ばかり見て、決してその悪い所を見ようとしない。 ところが不仁者、すなわちつまらない人間は、他人の良い所には目をつむって、その短所、欠点のみを求め、探し出して攻撃したり、軽蔑したりする。 世にこれを目糞くそ鼻くそを笑うという。 友よ、我々が他人の良い所ばかり目につくようになったら、我々は立派になっているのだ。 その反対になったら警戒せよ。 私たちはつまらぬ人間になっているのだ。H29-5-29

*汝の敵を愛せよ。(イエス・キリスト)

イエスの有名な言葉である。 私たちはなかなか敵を愛することができない。 愛するどころか憎くて憎くてならない。 そこで敵もまたこちらを憎む。修羅地獄から逃れられない所以である。 本当に自分が幸福になろうと思うなら、我が敵として現われている者を憎まないで愛することだ。 愛そうと努力するのだ。 そうすることによって、敵との争いの地獄から逃れられる。 神でも仏でもない我が身にとって、イエスの如く振る舞うのは難しい。 だが、少しでもそれに近づけようとするところに心の平安が得られる。H29-5-26

*行く末は海となるべき谷川も、しばし木の葉の下をくぐらん。(古歌)

人生大きな成功を成したる人も、初めから幸運ばかりの連続であったのではない。 人生には色々な困難がある。 それを耐え忍んでこそ、やがて順調の幸運も廻ってくるのである。 末は大海となる谷川の水も、しばし木の葉のような小さいものの下をくぐるのである。 大いなる人物、立派な人格者、そのような人の下にばかりついていて出世するのは易しい。 しかしつまらない人間の下にもつかされる時もあり、それを耐え忍んでこそ、人はやがて大いなる徳を持てるのである。H29-5-25

*運の悪い人を笑うな。(キロン:ギリシャ七賢の一人)

言葉は簡単であるが、この言葉は誠に深い意味を持っている。 私たちは運の良い成功者を見ると、反面に嫉妬心は持っていても、なお彼を尊敬したり褒めたりしてしまう。 しかし反対に運の悪い人を見ると、それを無思慮に軽蔑したり嘲笑ったりする。 心ない限りである。 人には天運というものがあり、どのような立派な人でも、正しい人でも、運に恵まれぬ時がある。 運とその人の材徳とは別である。 私たちは、その人の材や徳を、運によって品定めしてはならぬ。 この心得あって、全ての人に接する時、その人は必ず真の有徳者となれる。H29-5-24

*笑いのない人生は物憂い空白である。(サッカレー:イギリスの作家)

笑いのない家というものがある。 全てきちんと整頓されていて塵ひとつない。 しかしどこか冷たいのである。 その反対に襖は破れている、部屋は散らかっている、けれども笑いが満ちている。 子供が大勢いるのだ。 時には母が怒鳴ったりしていることもあるが、それがまた笑いに消されるのだ。 こういう家こそ発展の家である。 友よ、笑いのない人生を持つな。 そこは物憂い灰色の人生である。 過去、大なることを為した人、成功者と言われた人は、貧しい時もあったけど、明るく、笑いのある家に育ったか、築いてきた人たちである。H29-5-23

*汝らはそれ敵を誇らざるべからず。(ニーチェ:ドイツの哲学者)

大抵の人間が、自分の敵を憎むだけでなく軽蔑する。 しかしよく考えてみるとよい。 軽蔑すべきようなそんなつまらない人間を敵とするということは、とりもなおさず自分もまた、つまらない人間と同等と言うことではないか。 本当に自分を高く買うなら、つまらない相手、軽蔑すべき人物を敵としてはならない。 誇るに足るほどの偉大な人物を敵として、初めて真に自分を誇れるものである。 ところで今、わが敵は如何なる者であるか、反省してみよ。 君は初めて真に自分自身を知ることができる。H29-5-22

*人の我にくみせず、我に服せざるは、みな我が誠の足らざるなり、まさに自ら修省すべきのみ。(伊藤仁斎:江戸初期の儒者)

他人が自分に同調してくれず、また自分に服してくれないような時、私たちはともすれば相手を攻撃する。 彼は誠意がないとか、友情が無いとか言って非難するのである。 ところがこれが間違っていると仁斎は言うのである。 悪いのは先方ではない。先方の誠意や友情の不足ではなく、自分自身の徳が足りないからである。 それを反省することが必要だといっている。H29-5-19

*友情は愛せられることより愛することに存在する。(アリストテレス:ギリシャの哲学者)

友情を求める人は多い。 しかしそういう人には案外真の友人がいない。 他人にばかり友情を求めて、自分が進んで友情を持とうとしないからである。 友情とはこのギリシャの哲人が言うように、自分が他人を愛する時に生まれるもので、自分が愛されることを求めているだけでは生ずるものではない。 自分が進んで友情を持つ、そういう人だけがいつでも真の友人を持つのである。 友は決して先方からくるものではなく、自分自身が進んで作るものである。 真友なきを嘆く前に、自分が誰の真友でもないことを恥じよ。H29-5-18

*睦まじくして一片の乾けるパンのあるは、争いありて屠れる獣肉の盈ちたる家に優る。(聖書)

一家は睦まじいということより幸福なことはない。 それは貧富ではない。 ただ一片の乾いたパンしかなくても、その家が睦まじかったらそこは天国である。 たとえご馳走が山のように食卓に満ちていても、その家族に争いがあるなら、そこは地獄である。 我々はどんなに貧しくても良い、家庭の睦まじいことを第一にすべきで、争いある家を作ってはならない。 どんなに富んでいても、その家内に争いがあっては、その人々は決して幸福にはなれないのだ。H29-5-17

*最初の時に人を判断するべからず。(リチャードソン:イギリスの小説家)

人は初対面ですぐその人を判断しやすいものだ。 その人の服装で判断したり、その顔で判断したりしてしまう。 それは危険なことだ。 孔子でさえ、相手が風采が上がらないと言って人格を見損ねたり、弁舌が爽やかということで買いかぶったりしたことが二度ばかりあったと告白している。 いわんや我々のような凡愚な者は、単純に人を判断してはならない。 その人の行いをしっかり見た上で、初めて判断すべきである。 世の中には食わせ者と、隠れたる人物とが多いのだ。H29-5-16

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